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親鸞の伝承と史料批判:古田武彦(2)
(2007年6月8日、大谷大学にて)

それは事実、地元の伝承とも符合することです。と言いますのは、現地で居多ヶ浜(ごたがはま)という所が上越市の直江津のそばにあります。伝承では親鸞聖人がそこへ舟で着かれたといういうことなっている。

ところが不思議なことにその前は、糸魚川市の姫川にも舟で上陸し、そこから舟で来られたという。それは、現地の親鸞研究をされている大場厚順さんも、不思議がっておられるわけです。
 
これは従来の考えでは理解できない。つまり京都からずっと行ったと考えると理解できないのです。

【京都からずっと行ったと考えると、糸魚川の姫川から直江津まではすぐ近くで、わざわざ姫川で上陸する必要はない。】

そこで私は、親鸞が佐渡から舟でまっすぐ行ったのではなくて、まず野積(のづみ)、つまり寺泊(てらどまり)へ舟で行ったと思いました。
 
そしてそこから海岸沿いに舟で国府のある直江津に来ようとしたのです。

ところが風が強い時期で-------時期はだいたい分かります。海流はいつも四六時中西から東へ対馬海流は流れているのですが、ところが風が東から西へ流れる時期があるわけです。

これが今の10月、11月の頃です。だからその風に乗って東から西へ行く場合は、風も潮流も逆のところへ行こうというのは当時の船では無理です。

だからこれは季節も選ばないといけないし、そしてうまくどんつきの寺泊へ来て、そこから海岸沿いに風に押されながら行くというわけです。

ところがその場合、暴風雨だと、目的の直江津を越えて西の糸魚川(姫川)に着いてしまう。そういうケースもあるわけです。

わたしも今年(2007年)の一月七日、直江津に行ったとき、すさまじい暴風雨に遭いました。

おそらく今夜は汽車が来ないから今晩は早くお帰りなさいと大場さんや橘さんにお勧めいただいたのですが、その暴風雨のなかで居多ケ浜の海岸に立ちましたが、目も開けていられないすさまじい暴風雨でした。

汽車も止まるような暴風雨でした。私の場合は陸地だったからよかったものの、親鸞の場合は囚人船に乗せられて行ったから、通り過ぎてしまって、また元へ微調整して直江津に
帰ってきた。こう考えると非常に現地伝承と合うのです。
 
それでは、なぜ越後に来たかというと、ここからは史料がないから私の想像ですが、結局は囚人労働のためですね。とにかく囚人というのは、何も働かさなかったら支配者が損をするわけです。食べられるだけになるから、当然、食べる量以上に働かせなかったら、支配者としては困るわけです。

縄文の越の国の頃でしたら五色の美しい石が出ているような土地です。また江戸時代前後は大判・小判のための黄金の採掘で囚人労働がさんざん使われたわけです。働きながらどんどん死んで行くわけですから、いくら囚人がいても足らないのです。
 
ところが親鸞の生きた鎌貪時代はどっちでもなかった。つまり佐渡ではたいした労働をさせられないわけです。

だから国府のある越後へ運ばれた。そこで農耕もあるでしょうし、また後で述べますが、高い身分の僧侶の輿を担いで坂を上がっていく労働。そういったものを被差別民、囚人たちがやらされていた。それに親鸞も使われるべく、今の上越地方へ連れてこられた。
 
現在の直江津に草庵と言われるものが二カ所ありますけれども、草庵と言えばいかにも風流な言葉で、月を見て歌を作っているかのような感じがしますけれども、事実はそんなものではなく、囚人労働ですね。被差別民と同じ過酷な労働をさせに連れてこられた。私はそう考えます。
 
だからこの点、ここで一言を挟みますと、かつて服部之總氏のように、プロレタリアート親鸞を「娘を売った」かのように描いて得意になっていた時期がありましたが、とんでもない誤読だと赤松俊秀さんが見事に指摘されましたよね。ところが最近では逆に、親鸞の流罪はたいしたことないのだと、身内や家族による庇護があったので、たいして苦しくはなかったという「上流流罪」、「恵まれ流罪」だったという捉え方が多いように感じるわけです。

こうした意見は大分前から出されているのを私もよく知っておりますが、最近その系列の意見が強くなっている気がします。松野純孝さんあたりの説を受けているのだと思います。
 
しかし、歴史に対する私の考え方は、右でも左でもイデオロギーはだめということです。イデオロギーで史料を解釈しても長続きは絶対にしない。これは敗戦を経てきた私は痛感をしています。

やはりイデオロギーではなく、事実に基づいて真実を追究する。それだけが私は歴史学であると考えております。

by hukohitomi | 2009-06-27 19:56
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