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親鸞の伝承と史料批判:古田武彦(7)
(2007年6月8日、大谷大学にて)

最後になりますが、いま松本郁子さんという若い研究者が、西本願寺の太田覚眠という、昭和十九年に亡くなられた僧侶の研究をしておられる。その人は現在のウラジオストックに行き、モンゴルに行っているわけです。そうした太田覚眠の行動は、親鸞が佐渡に行ったのと何か関係があるのではないでしょうかと松本さんが言われたので、そんなことはないでしょうと、そのときは答えておりました。
 
しかし気がついてみたら、太田覚眠という人は終世西本願寺派の僧侶であったのに、坂東曲(ばんどうぶし)をいつもやっていたと言っている。坂東曲というのは御承知のように東本願寺だけでやるものですよね。西本願寺の僧侶なのに坂東曲をいつもやっていた。何か、海を越えて舟に揺られていくというイメージを、覚眠はもったのではないでしょうか。最初はそんなことは-----と言っていたのですが、それは訂正しないといけないな、と現在は思っています。
 
まだまだお話したいことは沢山ありますが、もう時間がまいりました。どうもご静聴ありがとうございました。



# by hukohitomi | 2009-06-27 20:05
親鸞の伝承と史料批判:古田武彦(6)
(2007年6月8日、大谷大学にて)

さて、浄土宗が六年ほど前に出した『金光上人関係伝承資料』という立派な本には、金光上人に関する資料がまとめられています。この資料集を作る際には、金光上人に関係する文書が沢山収められている、和田家文書の『東日流外三郡誌』のなかで写真を一五九点でしたか、マイクロフィルムで撮ったと書いてある。
 
ところがそれを一切採用していない。

なぜかといえば、偽書説の嵐が吹いており、それに騙されてしまい、これらを資料として載せなかったのです。

それはやっぱり情けないですよ。

これが史料集である以上は、本物か偽物かという判断は見る人に委ねればいいわけで、編集者が偽書説の人の本を挙げて、この人たちが偽物だと言っているから、そしてその意見が本当だと思うから史料として載せないというのは、情けない態度を取られたと思います。
 
秋田孝季(たかすえ)という人は、自分が書いたものが嘘か本当かはわからない。意見も対立している。しかし後世の人に判断してもらうためにここに記録した、と何回も書かれ
ている。

これが本当の学問精神である。

しかしこの資料集を作る際には学問精神が発揮されていない。法然上人という人は清濁併せのむ人柄で、非常に尊敬しているのですが、その末流がこれでは困るなと、悪く言うつもりはないんですが、そう思います。

幸いマイクロフィルムで一五九点も撮ったわけですから、新編資料集として改めてまた出されたら浄土宗のためにも大変名誉なことだと思います。この本の中にも私が見た以外にも親鸞との関わりが出てくる可能性があります。
 
なお、いま申しました寛政原本ですが、そのカラー写真を何点か載せた雑誌『なかった-------真実の歴史学』の第三号がちょうど数日前に刊行されました。

また寛政原本全部のコロタイプ版は七月以降(2008年3月)に出ますから、ご関心のある方はこれらをご覧いただければ幸いです。

# by hukohitomi | 2009-06-27 20:04
親鸞の伝承と史料批判:古田武彦(5)
(2007年6月8日、大谷大学にて)

さて、私がこういう問題、第二史料は第一史料に基づいて考えるべきだという、実に当たり前のことに、なぜ今になって気がついたのかには理由があります。

それは去年11月10日、八王子にある大学セミナーハウスで二日間にわたる講演をした際、その前の晩に「東日流外三郡誌」寛政原本にお目にかかったのです。

持ってきた人に見せていただいて寛政原本だと気がついたのです。
 
そして講演が終わった14日にタクシーでそこを出た。そしてタクシーの運転手が板倉出身の方で、自分の出身の関山には親鸞聖人が住んでおられた洞窟があると言われる。

私はそれでちょっかいを掛けまして、「親鸞聖人はその時佐渡から来られたことはありませんか」と尋ねてみたところ、「そうですよ。親鸞聖人は佐渡から来られたんです」と答えられてびっくりしたのです。
 
私はなぜそういうふっかけをやったかというと、『東日流外三郡誌』の「金光抄」に、金光上人が佐渡にいた親鸞と問答をしたことが書かれている。その問答が私の眼から見ると、あの時期の親鸞に非常にふさわしいんですね。関東や京都の親鸞ではありえないことですが、ふさわしい。

【『東日流外三郡誌』がいかに貴重な本であるかがよくわかります。】
 
ところが問題は、佐渡にいた、と書いてあることです。

これは単純な、浅い史料批判でいけば、これだけですでにおかしいとなるわけです。しかし親鸞が越後に流されていたのは常識中の常識でしょう。そんなことを間違えて書くはずがないのです。それでそこには何かあるんじゃないかというのが疑問として持っていたのです。
 
しかもそのことが載っている『東日流外三郡誌』は偽書説にさらされていたわけですが、江戸時代の寛政原本の原写本が出てきた。

その直後ですから、もしかしたら、と思って聞いてみたら、板倉の人の常識では、佐渡から来られた。そこで私は帰ってから『教行信証』を読み返してみたところ、なんだこれは佐渡に決まっているんじゃないかということになってきたわけです。

 
---------------------------------------------------------------------------

弱い犬ほど吠える。「トンデモ叫び達」は『東日流外三郡誌』を偽書だと吠え、寛政原本が出たその時には自分達の学問的発言を断つ物言いでした。

寛政原本が出た今、なぜほおかむりしているのでしょう。出てきた原本に遠くから、声小さく偽書呼ばわりするだけでは情けない。

古田先生のところへ直接出向いて、原本を自分達の目で確認すればよい。

その上で、なおかつ偽書呼ばわりをしたければしたらよい。 

あれだけの騒動を起こしながら、なおかつ学問的対応をしない。

初めから『東日流外三郡誌』が江戸時代、寛政年間の書として知っていてとにかく「古田つぶし」が出来れば良かっただけなんですね。「古田つぶし」で金儲けが出来ればそれでよかったんですね。

中小路先生が「トンデモ叫び達」を「学盗」と呼ばれていました。「古田先生に足を向けて寝ることは出来ぬぞ」と激しくお怒りでした。中小路先生が『東日流外三郡誌』の研究を始められたときにおっしゃっていた言葉です。

京都大学文学部、文学がご専門の中小路先生。かたや京都大学文学部出身なれど専門は心理学の人をかつぐ「トンデモ叫び達」。あなた方の大好きな学歴主義で行けば、どちらに軍配が上がるか明白でしょう。

古田先生が『東日流外三郡誌』の研究を始める10年前に佐治芳彦氏は同書について本を出されていました。

その10年間には何も発言しなくて、古田先生が同書の研究を始められたとたん「偽書呼ばわり」策動。しかも佐治氏は黙ってしまわれた。

恐ろしいことだと思いませんか。

そして古田先生は「真実探求」とひきかえに、「悪罵と嘲笑」を浴びせられたのです。

まさに親鸞の生き方、ソクラテスの生き方ではありませんか。

日本の宝、『東日流外三郡誌』を葬ろうとする至愚至狂の行為は真実の歴史によっていつか断が下されます。


# by hukohitomi | 2009-06-27 20:03
親鸞の伝承と史料批判:古田武彦(4)
(2007年6月8日、大谷大学にて)

さて、そのことの証拠が、皆さんよくご存じの「正像末和讃愚禿悲歎述懐」にあります。

実はこの和讃は私が大変好きなもので、親鸞研究をしている時でも、絶えずこれを呟いておりました。呟いていながら、八〇歳になるまで本当の意味を知らずにいたという非常に恥ずかしい思いをしております。
            
この和讃の十三番に、「旡戒名字(むかいみょうじ)の比丘(びく)なれど」とあります。

戒が無くて藤井善信(ふじいよしざね)という世俗の名前を与えられた比丘であるけれども。--------日本語だから主語を略すことがありますけれども、主語を補えば「私は旡戒名字の比丘であるけれども」とこう言っているのです。

つまり、社会評論を親鸞がやっているわけではなく、自分の経験を言っているのです。だから「私は」という主語を補うべきなのです。
 
そして同じ和讃の十五番には、「末法悪世(まっぽうあくせ)のかなしみは 南都北嶺(なんとほくれい)の佛法者の 輿(こし)かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」。

そして十六番には、「比丘比丘尼を奴婢として 僕従(ぼくじゅう)ものの名としたり」というくだりがあります。ということは、つまり比丘や比丘尼を奴婢として扱っている。そして僕従として扱っているということです。
 
ところが先ほど申しましたように、自分は旡戒名字の比丘であると言っている。それは奴婢として生活をさせられていて、僕従として扱われており、高い位の僧の輿を担ぐ役に使われていたということを言っているのです。

もう非常にはっきりしているんですが、今までは全く気がつかなかった。というようなことですから、今のような状況を親鸞自身が完全に告白している。
 
それで一番の肝心なところはこの和讃の十四番、「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」。「罪業」というのは、変な難癖を付けられた。女色に乱れているとか大嘘っぱちのことを言われたが、それは全く意昧のないことだ。事実に反する。

「妄想顛倒のなせるなり」。上皇が男として、政治的な側面もあったろうけれども、同時に男であったわけです。だから宮中の女が念仏しているというので、嫉妬でムラムラと狂った。そういう男の嫉妬狂い。その妄想顛倒がなしたものである。

それが我々師弟に対する流罪である。
 
「心性もとよりきよけれど」。私の心は誠に清いものである。しかしこの世、この「世」は世の中ではなく、立身出世の世、つまり上級社会を意味しているのですが、この現代の上級社会に真の人はいない。上皇、天皇たち、みんな偽物だ。これだけはっきりと言われていることに八〇歳になるまで気がつかなかったのです。恥ずかしい次第です。
 
それでは、なぜ従来の説が一般化していたかといえば、『歎異抄』の流罪記録。私も散々論文で利用させてもらったものなのですが、これはしかし流罪問題に関して言えば、第一史料ではなく、第二史料。しかも承久の変以後の史料である。

だから流罪一種の史料である。遠流、近流もごちゃまぜで遠流と書いているんです。これはれっきたる承久の変以後の概念で書いている証拠なのです。

これでまず我々は理解したわけです。それで第一史料である『教行信証』に出てくる「遠流にされた」ということを、第二史料をもとに解釈してきたわけです。だから話がおかしくなってきた。現地伝承とも合わなかったわけです。以上のことを私は改めて知りました。



----------------------------------------------------------------------
愚禿悲歎述懐

(1)
浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし

(2)
外儀のすがたはひとごとに
 賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おほきゆゑ
 奸詐ももはし身にみてり

(3)
悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる

(4)
無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ

(5)
小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき

(6)
蛇蝎奸詐のこころにて
 自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にてはてぞせん

(7)
五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

(8)
かなしきかなや道俗の
 良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす

(9)
僧ぞ法師のその御名は
 たふときこととききしかど
提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり

(10)
外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり

(11)
かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す

(12)
五濁邪悪のしるしには
 僧ぞ法師といふ御名を
奴婢僕使になづけてぞ
 いやしきものとさだめたる

(13)
無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて
舎利弗・目連にひとしくて
 供養恭敬をすすめしむ

(14)
罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

(15)
末法悪世のかなしみは
 南都北嶺の仏法者の
輿かく僧達力者法師
 高位をもてなす名としたり

(16)
仏法あなづるしるしには
 比丘・比丘尼を奴婢として
法師・僧徒のたふとさも
 僕従ものの名としたり


以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり。

 釈親鸞これを書く。







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承元元年、大弾圧はくだった。親鸞は、師の法然とともに、流罪人とされた。

親鸞の心に、もっとも深い怒りを刻みつけたのは、同志、住連・安楽の死刑だ。

よこしまな腹立ちから、かれらを御所の庭にひきすえた後鳥羽上皇。その面前で、安楽は、不法の弾圧者は必ず滅びると、断言したという。

親鸞は、流罪中、この権力者の行為に、はげしく抗議した。
 

「主上・臣下、法にそむき、義にたがう」と、かれは、九〇歳の死にいたるまで、この思想的節操を変えることがなかったのである。


だから、親鸞の生涯をひと言でいえば、「生き残り、生き抜いた住連・安楽」としての一生だった。                                      

その住連・安楽の墓は、いま、京都東山の法然院の隣に、ささやかに、存在している。


# by hukohitomi | 2009-06-27 20:00
親鸞の伝承と史料批判:古田武彦(3)
(2007年6月8日、大谷大学にて)

そこで、いまのことの関連で、関山(せきやま)というところが直江津から長野へ行く途中、上越市の板倉にあり、その関山に洞窟がある。そこに親鸞聖人が住んでおられたとい
う伝承が現地では根強くあります。

それを私は板倉出身の人から聞いたのですが、「自分の母親は朝起きてから寝るまで念仏なしでは生きておられないような人だったが、親鸞聖人はあの洞窟に住んでおられたといつも言っていた」と。これは、私も含めて、今までの親鸞研究からすればとんでもない話ですね。しかしさきほどの囚人労働という話でいえば、全然おかしくないのです。
 
この現地に行ってみましたら、今年の一月七日、ちょうど猛吹雪の日で、あっという間に二メートル、三メートルという雪が積もるのを初めて見ましたが、そこで関山の洞窟に行きましたが、その中は軽く10人位は入れるほどで、囚人を詰め込めば20~30人は入れるかもしれない。そこに入れられていた中に親鸞がいた。ここは「ひじりのいわや」とも呼ばれていますが、聖(ひじり)とは親鸞のことだと私は思います。聖の解釈をしだすと長くなりますが、愚禿親鸞というのは聖のことですよね。


# by hukohitomi | 2009-06-27 19:59
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古田武彦先生による親鸞研究紹介
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