(2007年6月8日、大谷大学にて)
さて、そのことの証拠が、皆さんよくご存じの「正像末和讃愚禿悲歎述懐」にあります。
実はこの和讃は私が大変好きなもので、親鸞研究をしている時でも、絶えずこれを呟いておりました。呟いていながら、八〇歳になるまで本当の意味を知らずにいたという非常に恥ずかしい思いをしております。
この和讃の十三番に、「旡戒名字(むかいみょうじ)の比丘(びく)なれど」とあります。
戒が無くて藤井善信(ふじいよしざね)という世俗の名前を与えられた比丘であるけれども。--------日本語だから主語を略すことがありますけれども、主語を補えば「私は旡戒名字の比丘であるけれども」とこう言っているのです。
つまり、社会評論を親鸞がやっているわけではなく、自分の経験を言っているのです。だから「私は」という主語を補うべきなのです。
そして同じ和讃の十五番には、「末法悪世(まっぽうあくせ)のかなしみは 南都北嶺(なんとほくれい)の佛法者の 輿(こし)かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」。
そして十六番には、「比丘比丘尼を奴婢として 僕従(ぼくじゅう)ものの名としたり」というくだりがあります。ということは、つまり比丘や比丘尼を奴婢として扱っている。そして僕従として扱っているということです。
ところが先ほど申しましたように、自分は旡戒名字の比丘であると言っている。それは奴婢として生活をさせられていて、僕従として扱われており、高い位の僧の輿を担ぐ役に使われていたということを言っているのです。
もう非常にはっきりしているんですが、今までは全く気がつかなかった。というようなことですから、今のような状況を親鸞自身が完全に告白している。
それで一番の肝心なところはこの和讃の十四番、「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」。「罪業」というのは、変な難癖を付けられた。女色に乱れているとか大嘘っぱちのことを言われたが、それは全く意昧のないことだ。事実に反する。
「妄想顛倒のなせるなり」。上皇が男として、政治的な側面もあったろうけれども、同時に男であったわけです。だから宮中の女が念仏しているというので、嫉妬でムラムラと狂った。そういう男の嫉妬狂い。その妄想顛倒がなしたものである。
それが我々師弟に対する流罪である。
「心性もとよりきよけれど」。私の心は誠に清いものである。しかしこの世、この「世」は世の中ではなく、立身出世の世、つまり上級社会を意味しているのですが、この現代の上級社会に真の人はいない。上皇、天皇たち、みんな偽物だ。これだけはっきりと言われていることに八〇歳になるまで気がつかなかったのです。恥ずかしい次第です。
それでは、なぜ従来の説が一般化していたかといえば、『歎異抄』の流罪記録。私も散々論文で利用させてもらったものなのですが、これはしかし流罪問題に関して言えば、第一史料ではなく、第二史料。しかも承久の変以後の史料である。
だから流罪一種の史料である。遠流、近流もごちゃまぜで遠流と書いているんです。これはれっきたる承久の変以後の概念で書いている証拠なのです。
これでまず我々は理解したわけです。それで第一史料である『教行信証』に出てくる「遠流にされた」ということを、第二史料をもとに解釈してきたわけです。だから話がおかしくなってきた。現地伝承とも合わなかったわけです。以上のことを私は改めて知りました。
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愚禿悲歎述懐
(1)
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(2)
外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おほきゆゑ
奸詐ももはし身にみてり
(3)
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
(4)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(5)
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(6)
蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
(7)
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
(8)
かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
(9)
僧ぞ法師のその御名は
たふときこととききしかど
提婆五邪の法ににて
いやしきものになづけたり
(10)
外道・梵士・尼乾志に
こころはかはらぬものとして
如来の法衣をつねにきて
一切鬼神をあがむめり
(11)
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
(12)
五濁邪悪のしるしには
僧ぞ法師といふ御名を
奴婢僕使になづけてぞ
いやしきものとさだめたる
(13)
無戒名字の比丘なれど
末法濁世の世となりて
舎利弗・目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ
(14)
罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
(15)
末法悪世のかなしみは
南都北嶺の仏法者の
輿かく僧達力者法師
高位をもてなす名としたり
(16)
仏法あなづるしるしには
比丘・比丘尼を奴婢として
法師・僧徒のたふとさも
僕従ものの名としたり
以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり。
釈親鸞これを書く。
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承元元年、大弾圧はくだった。親鸞は、師の法然とともに、流罪人とされた。
親鸞の心に、もっとも深い怒りを刻みつけたのは、同志、住連・安楽の死刑だ。
よこしまな腹立ちから、かれらを御所の庭にひきすえた後鳥羽上皇。その面前で、安楽は、不法の弾圧者は必ず滅びると、断言したという。
親鸞は、流罪中、この権力者の行為に、はげしく抗議した。
「主上・臣下、法にそむき、義にたがう」と、かれは、九〇歳の死にいたるまで、この思想的節操を変えることがなかったのである。
だから、親鸞の生涯をひと言でいえば、「生き残り、生き抜いた住連・安楽」としての一生だった。
その住連・安楽の墓は、いま、京都東山の法然院の隣に、ささやかに、存在している。